LOGIN冷たいものが、額から頬を伝っていた。
水ではない。もっと粘りのある、鉄の匂いを含んだ液体だった。睫毛の先に溜まった雫が落ち、白い寝衣の胸元へ暗い染みをつくる。
榛名依子は、息を吸った。
喉の奥がひどく乾いている。肺へ入った空気は、冬の事務所で一晩中稼働していた空調よりも冷たかった。けれど鼻を刺すのは埃でも機械油でもない。甘い花香と、蝋燭の煤、それから微かな血の匂い。
目の前に、ひび割れた鏡があった。
銀色の縁を持つ大きな姿見。その中央を走る亀裂が、映り込んだ少女の顔を二つに割っている。
青みを帯びた長い黒髪。血の気の薄い頬。淡い琥珀色の瞳。見覚えのない顔なのに、鏡の中の少女が自分であることだけは、疑いようがなかった。
右の頬が熱を持っている。
誰かに打たれた痕ではない。手のひらの形に赤く腫れているのは、鏡の中の自分ではなく――。
「お、お嬢様……」
震える声がした。
依子は、ゆっくりと視線を動かした。
床へ落ちた銀盆。砕けた磁器の茶器。薄茶色の液体が絨毯へ広がり、その端で、若い侍女が身を強ばらせている。
栗色の髪を白い布帽子の下へ押し込み、濃紺の侍女服を着た少女だった。年は二十歳に届くかどうか。左の頬が赤く腫れ、唇の端に細い血の筋がある。胸元で握り締められた両手は、関節が白くなるほど力が入っていた。
依子は自分の右手を見た。
細く、白い指。その爪の際に、他人の血が付いている。
触れた覚えはなかった。
だが、知っていた。
この手が、たった今、目の前の侍女を打ったことを。
知らない記憶が、熱を持って頭の奥へ流れ込む。
紅茶の温度が低いと怒鳴った声。銀盆を払った音。侍女が謝罪する前に立ち上がり、頬を打った感触。指輪が皮膚を裂いた、柔らかく鈍い手応え。
同時に、別の光景が重なる。
深夜の横断歩道。雨に濡れたアスファルト。残業を終え、鞄の中で鳴り続けていた会社の携帯電話。信号が青へ変わったと思った瞬間、視界を焼いた白い光。耳を塞ぐほどの警笛。
二十九歳の会社員、榛名依子。
その名が、遠い場所から呼ばれたように胸の底で響いた。
そして、この身体の名もまた、記憶の中にあった。
リディエラ・オルヴェイン。
魔術王国レオルディスの公爵令嬢。王太子の婚約者。乙女ゲーム『花冠のレガリア――聖女は五つの愛を選ぶ』に登場する、断罪されるためだけに用意された悪役令嬢。
依子の指先から、力が抜けた。
爪の間に残っていた血が、震えとともに滲む。
叫び声は出なかった。
こういう時、人は本当に声を失うのだと、妙に冷静な部分が考えていた。恐怖が大きすぎると、感情より先に、逃げ道と危険の数を数え始める。
部屋の扉は一つ。
閉じているが、外に人の気配がある。衣擦れ。押し殺した呼吸。侍女がもう一人、あるいは護衛が控えている。
窓は二つ。厚いカーテンの隙間から薄い朝の光が差していた。床までは高くない。しかし外が何階なのか分からない。
暖炉には火が残っている。火掻き棒。割れた茶器。銀盆。鏡台の上には細い髪飾りと香水瓶。凶器になり得るものが多すぎる。
目の前の侍女は、依子から目を逸らさない。
怯えているのに、逃げてはいなかった。
逃げれば追われると知っている者の立ち方だった。
その姿を見た瞬間、胸の奥で別の記憶が軋んだ。
母親の足音を聞き分けていた幼い頃。廊下を歩く速さ、食器を置く音、扉の閉め方で、その日の機嫌を測った。逃げれば怒られる。黙っていても怒られる。謝れば、何に対して謝っているのかと責められる。
だから、目を逸らさない。
相手の指先と呼吸を見て、次の動きを予測する。
目の前の侍女も、同じことをしていた。
依子は、自分の手をゆっくり下ろした。急な動きで怯えさせないよう、寝台の端へ置く。
「……水を、いただけますか」
声が掠れた。
自分のものではない、少し低く澄んだ少女の声だった。
侍女の肩が跳ねる。
依子は言葉を続ける前に、唇を湿らせた。命令の形にならないようにしたかった。だがこの世界で、公爵令嬢が侍女へ何かを求めれば、それはどれほど柔らかな言い方でも命令になる。
「飲むための水と、清潔な布を。用意できる範囲で構いません」
侍女は答えなかった。
ただ、目の奥の恐怖が深くなる。
突然静かになった主人を、気遣いのできる人間だとは思わない。次の罰の前触れだと考えるのが自然だった。
依子は、彼女の頬へ視線を戻した。
細い裂傷から、また血が滲んでいる。指輪の石が引っ掛かったのだろう。赤く腫れた肌の上で、その血だけが鮮やかだった。
「その前に、怪我を――」
「触らないでください」
声は小さかった。
けれど、部屋の空気を切るほど明確だった。
扉の外で、誰かが息を呑む。
侍女自身も、自分が口にした言葉を恐れたらしい。唇が震え、膝が僅かに折れかける。それでも彼女は、頬を庇うように顔を背けた。
「申し訳、ございません。けれど……今さら、優しいふりをなさらないでください」
優しいふり。
その言葉は、正しかった。
依子の中身が別人になったところで、打たれた頬の痛みは消えない。侍女にとっては、目の前にいるのは自分を殴った主人でしかない。
「分かりました」
依子は、膝の上で両手を重ねた。
指先が震えているのを隠すためではない。自分が手を伸ばさないと、目に見える形で示すためだった。
「触れません」
侍女が訝しげに顔を上げる。
依子は視線を合わせたまま、できるだけ静かな声で続けた。
「医務室へ行くかどうかも、あなたが決めてください。別の人に付き添ってもらっても構いません。私へ報告する必要もありません」
「……何を、お考えですか」
「今は、何も企んでいません」
答えながら、依子は自分の言葉の頼りなさを噛み締めた。
何も企んでいない者ほど、そう言う。
信じてもらえるはずがない。
「信じなくて構いません」
侍女の瞳が、僅かに揺れた。
「ただ、これ以上あなたへ近づきません。水と布も、他の方に頼んでください。あなたがここに残る必要はありません」
沈黙が落ちた。
暖炉の薪が崩れ、乾いた音を立てる。壁際の燭台から蝋が一筋垂れ、金属の受け皿へ落ちた。
侍女の呼吸は浅いままだった。けれど、すぐには動かない。罠がないか確かめるように、依子の顔から手元、扉まで視線を往復させる。
その時、視界の中央に淡い光が浮かんだ。
最初は、朝日に塵が反射したのだと思った。
だが光は空中で輪郭を持ち、薄い板のように広がった。透明な面に、黒い文字が一行ずつ刻まれていく。
〈悪役令嬢リディエラ・オルヴェイン〉
依子の呼吸が止まる。
侍女は反応しない。
彼女には見えていない。
〈推定生存率:1%〉
〈断罪イベントまで:七日〉
文字は静かに浮かび、逃げ場のない事実だけを示した。
七日。
依子はその数字を見つめた。
ゲームの記憶が、身体に残る記憶とは別の場所から滲み出す。
王立アルセリア学院の卒業祭。大階段の上で罪状を読み上げる王太子。聖女候補である妹ミレシアを毒殺しようとした罪、神殿への冒涜、騎士への虚偽告発、国家機密の漏洩。
華やかな舞台の中央で、リディエラは婚約を破棄される。
その後は選択によって違った。
国外追放。幽閉。処刑。
どの結末でも、この少女が幸福になる道はなかった。
しかも依子が知っているのは、発売された通常版だけではない。
会社の休憩時間、匿名掲示板で話題になっていた開発途中の流出版。理不尽な条件、異常な数値変動、攻略対象の愛情が一定値を超えると監禁へ変わる破棄データ。
〈ナイトメア・マスターズビルド〉。
制作者が完成を諦めた、最高難易度版。
そこへ転生したのだとしたら、生存率一パーセントという表示は脅しではない。
むしろ、一パーセントも残っていることを喜ぶべきなのかもしれなかった。
依子は奥歯を噛み締めた。
こめかみの内側で、鈍い痛みが脈打つ。見知らぬ記憶が流れ込んだせいか、打ち付けたせいか分からない。
鏡の亀裂が視界の端で歪む。
そこに映るリディエラの顔は、青ざめていた。
「お嬢様」
侍女の声で、依子は瞬きをした。
「……本当に、お医者様をお呼びしなくてよろしいのですか」
心配ではない。
主人がここで倒れれば、自分の責任にされる。その恐怖が声に滲んでいた。
依子は頷きかけ、止めた。
勝手に大丈夫だと決めてよい状態ではない。自分の身体のことも、侍女の立場も分からない。
「医師は呼んでください。ただし、あなたは別の方に処置をしてもらってからで構いません」
「私のことなど」
「あなたの怪我は、私が負わせました」
言葉にすると、胸の内側が重く沈んだ。
自分がしたことではないと言い逃れたくなる気持ちはあった。
依子には、侍女を打った意思も記憶もない。目を開けた時には、すべてが終わっていた。
だが、この身体はリディエラのものだ。
この地位も、部屋も、侍女が怯える理由も、すべてリディエラの名に結びついている。
中身が違うからといって、加害だけを置き去りにはできなかった。
「責任を、曖昧にはしません」
侍女の唇が固く結ばれる。
「そのようなお言葉を、何度聞いたと思っているのですか」
依子は返事をしなかった。
何度聞かされたのかを知らない者に、軽々しく答える資格はない。
沈黙が長くなる。
けれど今度の沈黙は、先ほどとは違っていた。
侍女は依子が怒鳴り出すのを待っている。謝罪を強要し、言葉を撤回させる瞬間を待っている。
依子は、ただ彼女の選択を待った。
やがて侍女は、胸元で握り締めていた手をゆっくり解いた。指の跡が掌へ赤く残っている。
「……外にいる者へ、医師を呼ばせます」
「お願いします」
「水と布も、別の者に運ばせます」
「はい」
侍女は一礼した。
動作は正確だったが、腰を折る時も依子から目を離さない。敵へ背を向けないようにする者の礼だった。
扉へ向かう足音が、厚い絨毯へ吸い込まれる。
彼女が取っ手へ手をかけた時、依子は思わず声をかけそうになった。
名前を知らなかった。
呼び止める理由もない。
謝りたかった。
けれど、今この場で口にする謝罪が、侍女に何を強いるのか分からない。泣いて許せと言えば、被害を受けた側が主人を慰めることになる。そんな形にしてはいけない。
依子は唇を閉じた。
扉が開く。
廊下には、二人の侍女と、黒い制服の護衛が立っていた。全員の視線が一斉に室内へ入り、床の銀盆、割れた茶器、頬を腫らした侍女、寝台に座るリディエラを順に捉える。
非難。
警戒。
諦め。
誰も声には出さなかったが、それぞれの表情に同じ結論があった。
まただ。
依子は、その視線を受け止めた。
侍女が廊下へ出る。扉が閉じる直前、栗色の髪が僅かに揺れた。
「フェルニカ」
外にいた侍女の一人が、彼女の名を呼んだ。
フェルニカ。
依子は心の中で、その名を繰り返した。
忘れてはいけないと思った。
扉が静かに閉じた。
一人になった部屋は、急に広くなった。
花の香りが濃い。甘すぎる香水の匂いが、喉の奥へまとわりつく。依子は浅く息を吸い、視界に浮かぶ文字へ意識を戻した。
〈断罪イベントまで:七日〉
文字の下に、小さな記号があった。
触れるつもりで指を伸ばすと、空中の板は音もなく展開した。
新たな項目が並ぶ。
〈本日の死亡要因〉
〈侍女による毒殺:12%〉
依子の指が止まる。
さきほどの紅茶。
絨毯へ広がった薄茶色の染み。倒れた銀のポット。フェルニカが運んできたものなのか、別の誰かが用意したものなのか。
あの液体に毒が入っていた可能性がある。
フェルニカが入れたとは限らない。
だが、表示は「侍女による毒殺」とだけ告げている。犯人の名はない。
〈王太子による婚約破棄:41%〉
〈密偵による暗殺:73%〉
最後の数字だけが、赤く脈打っていた。
七十三パーセント。
断罪まで七日あるからといって、それまで生きていられる保証はない。
依子は震える指を握り込んだ。
怖い。
ようやく、その感情が形を持った。
胸の内側が狭くなり、息が入らない。耳の奥で血の音がする。背中へ冷たい汗が滲み、寝衣が肌に張り付いた。
死んだはずなのに、また死ぬかもしれない。
しかも今度は、誰に、どのように殺されるかが数字だけで示されている。
逃げたい。
窓からでも、扉からでも、この部屋から、この学院から、この国から。
けれど、逃げる先を知らない。
自分の名前すら、今は二つある。
依子は俯き、膝の上の手を見た。
白く細い手。
血の残った指。
この手は、誰かを傷つけた。
そして七日後には、誰かに裁かれる。
以前の自分なら、きっと最初に謝った。
自分が悪いかどうかを確かめる前に、相手の怒りを鎮めるために頭を下げた。理不尽な仕事も、母の不機嫌も、父の沈黙も、自分が我慢すれば済むと飲み込んだ。
けれど、ここでは我慢するだけでは死ぬ。
逆らうだけでも死ぬ。
愛されても、嫌われても、死ぬ。
依子はゆっくり顔を上げた。
鏡の中で、リディエラの琥珀色の瞳がこちらを見返している。
泣いてはいなかった。
泣く余裕がなかった。
「状況を、確認しよう」
声に出すと、僅かに呼吸が戻った。
まず、今がいつなのか。
断罪まで七日。
リディエラが何をしたのか。
誰に恨まれているのか。
誰が自分を殺そうとしているのか。
部屋の外に何人いるのか。館か学院か。逃げ道はあるのか。金はあるのか。味方はいるのか。
そして、フェルニカへ何を返さなければならないのか。
依子は鏡台の上へ目を向けた。
革表紙の手帳。封蝋のされた手紙。細い鎖のついた鍵。花弁を模した銀の髪飾り。どれも、この身体の持ち主が昨日まで触れていた品なのに、依子には使い方も意味も分からない。
手帳へ近づけば、この七日間に起こることを調べられるかもしれない。
だが立ち上がろうとした途端、足の裏から力が抜けた。
寝台の柱へ手をつき、辛うじて身体を支える。視界が黒く狭まり、心臓が胸骨を内側から叩いた。恐怖を抑え込んでいた身体が、遅れて限界を訴えている。
息を吐こうとしても、喉が閉じる。
依子は目を閉じ、四つ数えて吸い、六つ数えて吐いた。
幼い頃、物置へ閉じ込められた夜に覚えた呼吸だった。泣き声を聞かれれば、母が扉の向こうから笑う。だから音を立てず、暗闇の中で自分の息だけを数えた。
一度。
二度。
三度。
鼓動はまだ速い。それでも、足元の床が戻ってくる。
耐えられることと、傷ついていないことは同じではない。
その言葉を、依子は自分へ向けたことがほとんどなかった。
「怖くて、当然でしょう」
鏡の少女へ言い聞かせる。
リディエラの唇が、同じ形に動く。
その時、扉が三度、控えめに叩かれた。
依子の肩が強ばる。
「お水を、お持ちいたしました」
先ほど廊下にいた侍女の声だった。
入室を許す前に、扉が僅かに開く。銀の水差しと硝子の杯を載せた盆が、細い隙間から見えた。その後ろには、医師らしい灰色の外套の男が立っている。
依子は返事をしようとして、視界の端で赤い文字が明滅するのを見た。
〈侍女による毒殺:12%〉
たった十二。
けれど零ではない。
杯の水は澄んでいた。朝の光を受け、底まで清らかに透けている。匂いも色もなく、毒など入る余地がないように見えた。
盆を持つ侍女の指が震えている。
その爪の際には、厨房で付いたらしい白い粉が僅かに残っていた。小麦粉か、砂糖か、それとも別の何かなのか。問いただせば怯えさせる。黙って飲めば、自分の命を賭けることになる。
依子は、猜疑心が人の顔を歪めて見せる感覚を知っていた。だからこそ、恐怖だけでこの侍女を犯人と決めつけてはならない。
依子が怒鳴ると思っているのか。それとも、別の理由があるのか。
扉の向こうで、医師が小さく咳払いをした。
「お嬢様?」
依子は返事をせず、透明な水と、赤く脈打つ数字を見比べた。
逃げることも、信じることも、今はまだ選べない。まず確かめなければならない。誰の恐怖が本物で、誰の善意に刃が隠れているのかを。
断罪まで七日。
だが世界は、七日も待つつもりがないらしいと依子は静かにこの悩ましい現実を受け入れつつあった。
読書室の時計が深夜を告げても、ティルヴァンは帰ろうとはしなかった。侍従にはすでに「呼ぶまで入るな」と告げてあり、閉ざされた扉の向こうから人の気配だけが薄く伝わってくる。暖炉の薪は半分ほど灰になり、窓硝子へ映る二人の姿も、揺れる火の光に合わせて何度も輪郭を失っていた。リディエラは斜め向かいの椅子に座ったまま、黒ミッションの残り時間を確認しないよう努めていた。 見れば焦る。焦れば、あと少しだけティルヴァンを押せばよいという考えが必ず浮かぶ。母の死、エルドの処刑、ロディマスとの関係、自分が十一歳だったという事実。そのどれか一つを強く言葉にすれば、赤くなった彼の目から涙を落とせるかもしれない。だからこそ、リディエラは何も足さなかった。 ティルヴァンは一度封筒へ戻したはずの手紙を、再び取り出した。レナ・ファネスが自分の手で作った写しであり、端には彼女の署名が残っている。父親が最後に家族へ残した手紙は、処刑の正当性について論じる文書ではなかった。妻の薬、家賃の支払日、娘の裁縫道具、冬物の外套を直す場所。その生活の途中へ、たった一行だけ王太子の名が入り込んでいた。「殿下を責めてはいけない。あの方は子どもだった」 ティルヴァンが声に出した。すでに何度も読んだはずなのに、初めて読む文章のように一語ずつ区切っている。その指先は、ほかの行では止まらなかったのに、その一文へ戻るたび動きを失った。「子どもだった」 もう一度、低く繰り返す。 リディエラは返事をしなかった。そうです、あなたは十一歳でした、と言うことは簡単だったが、その言葉を彼が何のために求めているのか分からない。許してほしいのか、自分を責める材料として否定してほしいのか、それともただ事実を確かめたいのか。本人の言葉より先に意味を与えれば、また自分が答えを奪うことになる。「私は十一歳だった」 今度は、自分自身へ確認するようにティルヴァンが言った。「はい」「でも、王太子だった」「はい」「どちらも、本当なんだね」「そうだと思います」 ティルヴァンは紙から顔を上げなかった。王族として生まれた瞬間から、年齢とは別に役割が置かれていたのだろう。六歳で公式晩餐へ座り、八歳で外国使節を迎え、十歳で民衆の前に立った少年へ、周囲は子どもだから間違えてよいとは教えなかった。幼いのに立派だ、年齢以上に落ち着いている、未
暖炉の火が低くなり始めても、ティルヴァンはエルド・ファネスの手紙を膝へ置いたまま動かなかった。封筒は折れていないのに、何度も握られた端だけが柔らかくなっており、濃紺の瞳にはまだ薄い赤みが残っている。涙は落ちていない。リディエラは向かいの椅子に座り、視界の隅で減り続ける黒ミッションの時間を一度だけ確認すると、すぐ表示を閉じた。「婚約者に、こんな話をするべきではなかった」 ティルヴァンは自嘲するように言い、椅子の背へ預けていた身体を起こした。乱れてもいない袖口を整え、膝の上の手紙も端を揃えて封筒へ戻そうとする。その一連の仕草が、崩れかけた自分を王太子の形へ戻しているように見えた。リディエラは「そう思われるのですか」とだけ尋ね、慰める言葉を先回りして置かなかった。「王族が弱みを見せれば利用される。幼い頃から、何度もそう教えられた。今さら忘れたわけではないのに、今日は話しすぎた」 ティルヴァンは水杯へ手を伸ばしたが、飲まずに戻した。母を失ったことも、エルドを告発したことも、父に褒められたかったことも、自分が正しかったと信じたかったことも、彼にとっては他人へ渡すべきでない情報なのだろう。リディエラは、黒い選択肢にあった「自分だけが理解者であると告げる」という言葉を思い出した。ここで「私だけには話してください」「私は裏切りません」と言えば、優しい婚約者として彼の最も近い場所へ座れるのかもしれない。「私が今聞いたことを利用すると思いますか」 ティルヴァンはすぐには否定しなかった。以前のリディエラなら、彼が何に傷つくかを知れば、それを避けて好かれようとし、必要なら逆に触れて相手を動かしただろうと静かに答える。今のリディエラが同じことをしない可能性は感じていても、未来まで保証できる材料はないという。その言葉は冷たかったが、リディエラ自身も同じことを考えていたため、否定できなかった。「その通りです。ですから、今後私へ話さないと決めても構いません」 ティルヴァンの眉がはっきり寄った。リディエラは彼の表情が変わっても説明を急がず、拒絶されたと感じる時間まで奪わないよう待った。暖炉で薪が割れ、乾いた音が読書室へ響く。やがてティルヴァンは、理解できないものを見るように彼女へ問い返した。「それでいいのか。普通なら、ここで『私だけには話してください』とか、『私はあなたを裏切り
読書室の暖炉では、薪が低い音を立てながら崩れていた。ティルヴァンはエルド・ファネスの手紙の写しを膝へ置いたまま、先ほどからほとんど姿勢を変えていない。それでも王太子として人前に立つ時の整った座り方とは違い、背中は椅子へ預けられ、右肩だけがわずかに落ちている。リディエラも向かいの席へ座ったまま言葉を探さず、暖炉の火が揺れるのを見ていた。 黒い表示は視界の端へ残っている。〈黒ミッション残り時間:7時間02分18秒〉〈対象の涙:未確認〉 数字は減り続ける。ここまで来ても、ティルヴァンは泣いていない。母の死を語り、自分の証言で処刑されたかもしれない男の最後の手紙まで読んだ。それでも濃紺の瞳に涙は浮かばなかった。以前のリディエラなら、あと一言、もう一つ深い傷へ触れればよいと考えただろう。黒い画面も、きっと同じことを望んでいる。 リディエラは表示を閉じた。 残された7時間が自分の命に直結していても、それを目の前の人間へ背負わせることだけはしたくない。「母上を助けたかった」 不意にティルヴァンが言った。 リディエラは暖炉から視線を戻す。「十一歳の時ですか」「そう」 ティルヴァンは手紙ではなく、自分の両手を見ていた。「母上が体調を崩すことは、それ以前にもあった。でも、いつも数日で戻った。私は子どもだったから、病気というものは医師が来て薬を飲めば治ると思っていた」 声は静かだった。ただ、その静けさはこれまでのように感情を完全に押し込めたものではなく、言葉にしながら一つずつ確かめているように聞こえた。「エルドが薬瓶を持って部屋から出てきた時、何かがおかしいと思った。もし母上へ悪いものを飲ませようとしているなら、すぐ父上へ伝えなければならないと」「王妃陛下を守るために?」「それもあった」 少し間が空く。「父上に褒められたかった」 リディエラは瞬きをした。 ティルヴァンは目を伏せたまま続ける。「当時、父上は私へよく言っていた。王太子は、誰より早く危険へ気づかなければならない。臣下が見落とすものを見つけ、国を守る判断をしろ、と」 幼い少年へ与えられた言葉だった。王としては当然の教育だったのかもしれない。けれど十一歳の子どもにとって、父王から求められる「正しい判断」は、そのまま父に認められる方法でもあったのだろう。「エルドのことを報告した時、
ティルヴァンが息を吸ってから話し始めるまで、読書室には長い沈黙があった。暖炉の火が小さく鳴り、窓の外では夜へ向かう空が少しずつ青みを失っている。彼の膝にはエルド・ファネスの手紙の写しが開かれたまま置かれ、右手の親指だけが紙の端を押さえていた。そこには王妃を殺した人物の名も、毒を入れたという自白も、誰かを告発する文章もない。ただ死を目前にした父親が家族の暮らしを案じ、その中に一行だけ、十一歳の王太子を責めるなと書き残している。 リディエラは向かいから手紙を覗き込まなかった。すでに内容を知っているからでもあるが、今ティルヴァンがどの行で指を止め、どんな顔をしているかを観察すること自体が、黒いミッションのための材料集めに変わりそうだったからだ。残り時間は確実に減っている。それでも、彼が泣く兆候を探すためにこの場へ残ったのではないと、自分へ何度も言い聞かせた。「母上が倒れる前の日だった」 ティルヴァンの声は、いつもの王太子として話す時より低かった。「夕食のあと、私は父上の執務室から自分の部屋へ戻る途中だった。母上の私室の前を通った時、扉が開いた」 彼の視線は手紙に落ちたままだった。「出てきたのが、エルドだった」 リディエラは何も言わない。「母上付きの侍従だから、そこにいること自体は不自然ではなかった。でも、手に薬瓶を持っていた」 十一歳のティルヴァンが目にした場面が、彼の声だけで少しずつ輪郭を持っていく。王宮の長い夜の廊下。壁際の魔術灯。母の私室から出てくる侍従。そして男の手の中にある、小さな薬瓶。「どのような瓶でしたか」 リディエラが尋ねると、ティルヴァンは少し考えた。「茶色い硝子。掌に収まるくらい。母上が飲んでいた薬と同じ形だったと思う」「中身は?」「見ていない」 即答だった。「瓶の蓋が開いていたかも分からない。ただ、エルドがそれを持って母上の部屋から出てきた。それだけだ」 彼はそこで一度言葉を止めた。以前なら「だから疑うのは当然だった」と結論まで続けたのかもしれない。今は、見たものと考えたことを分けようとしているようだった。「エルドは殿下に気づきましたか」「気づいた。私へ礼をした」「何か話しましたか」「母上がもう休んでいる、と言った。私は、なぜ薬を持っているのか聞いた」「答えは?」「薬師へ戻すためだ、と」 ティルヴァ
王太子から届いた返書は、夜が明けても机の中央に置かれたままだった。ティルヴァンの整った文字は短く、何度読み返しても意味は変わらない。〈知りたい。ただし、君が私を傷つけるために見つけたものなら、今は聞きたくない〉。リディエラはその一文を前に、手紙の内容を知らせる許可をレナからまだ得ていないことを確かめるように、文書入れの鍵へ指を置いた。知りたいというティルヴァンの選択が出たからといって、今度はレナの選択を飛ばしてよい理由にはならない。 午前の講義が始まる前、リディエラは王都南区の仕立て屋へ短い使いを出した。公爵家の名ではなく、先日と同じ「リディエラ」の名で、エルド・ファネスの手紙について所有者へもう一度確認したいことがある、とだけ伝える。返事は昼前に届き、レナ自身が書いた紙には、王太子本人が知りたいと望んだのなら写しを見せてもよいこと、ただし一部分だけを抜き出さず、父の手紙を最後まで読ませてほしいことが記されていた。〈あの一文だけを、父が王太子を許した証拠にはしないでください〉という追記を読み、リディエラは何度も頷いた。 黒い表示は、そんな確認を待ってはくれなかった。視界の端では残り時間が減り続け、昼を過ぎた頃には〈黒ミッション残り時間:7時間18分42秒〉と表示されている。その下には〈高強度感情刺激候補:使用可能〉という文字が脈打ち、早く手紙を使えと急かすようだった。リディエラは表示を閉じ、レナから届いた許可書と写しを別々の封筒へ入れた。今日ティルヴァンへ渡すのは、攻略のための切り札ではなく、二人の人間がそれぞれ選んだ結果として開示される一通の手紙でなければならなかった。 面会の場所に指定されたのは、王太子執務室ではなく王宮東翼の小さな読書室だった。公務用の部屋ほど人の出入りがなく、それでも完全な私室ではない。扉の外には侍従が一人控え、室内には窓が二つ、暖炉の前に向かい合う椅子が置かれている。リディエラが入ると、ティルヴァンは窓際に立っていたが、彼女が持つ文書入れへ一度視線を落としてから、静かに席を勧めた。「返事を読みました」「だから来た?」「はい。ただ、その前に手紙の所有者へ、内容を殿下へお見せしてよいか改めて確認しました」「所有者?」「エルド・ファネスの娘です。レナ・ファネス。現在24歳で、王都南区で仕立て屋を営んでいます」 ティルヴァンの
レナ・ファネスから渡された手紙の写しは、帰宅してから一度も引き出しの奥へしまえなかった。 薄い紙一枚だった。原本ではない。レナ自身が必要な部分を写し、条件を決めたうえで預けたものだ。それでも机の上へ置いてあるだけで、黒い帳簿や王宮記録局の複写より重く感じた。窓の外では夜の王都へ細かな雨が降り始め、硝子を伝う水滴が燭台の光を何本にも歪めている。 リディエラは椅子へ座ったまま、写しの一行を見つめていた。「殿下を責めてはいけない。あの方は子どもだった」 それ以外には、妻の薬代や家賃、娘の裁縫道具についての細かな指示が続いている。王家への呪いも、無実を叫ぶ言葉もない。だからこそ、その一行だけを切り離してティルヴァンへ差し出すことが、ひどく暴力的に思えた。 視界の隅で黒い表示が開く。〈黒ミッション残り時間:18時間43分17秒〉〈対象の涙:未確認〉 さらに、これまでになかった文字がその下へ浮かんだ。〈高強度感情刺激候補を検出〉〈関連対象:エルド・ファネス〉〈推奨使用:有効〉 リディエラは眉を寄せた。システムは、この紙を見つけた瞬間から用途を決めている。十一歳の自分が告発した男から、最後に「責めるな」と庇われていたと知れば、ティルヴァンの感情は大きく動く。罪悪感なのか、怒りなのか、悲しみなのかは関係ない。ただ本物の涙が出ればよい。 成功報酬は生存ポイント+30。失敗すれば-60。現在107だから、失敗後は47まで落ちる。黒い数字を眺めるほど、紙が手段に見えてくる。これを今夜王宮へ持っていき、ティルヴァンへ見せればいい。レナの許可が必要なら、内容を見せる前に取りに戻ればいい。その上で告発した日のことを尋ね、母の死とエルドの処刑を一緒に突きつける。それだけで達成する可能性は、これまでよりずっと高い。 リディエラは写しへ伸ばしかけた指を止めた。 目的が間違っている。 ティルヴァンが知るべきだから見せるのではない。本人が知りたいと望んだからでもない。自分が生き残るため、彼を泣かせるために見せようとしている。それでは、真実そのものを刃へ加工しているだけだった。 では、隠せばよいのか。 レナの父が最後に残した言葉を、自分だけが知ったまま封じる。ティルヴァンが生涯知らなかったとしても、「知らない方が幸せだ」と自分が判断して黙っている。そこまで考えると、







