FAZER LOGIN冷たいものが、額から頬を伝っていた。
水ではない。もっと粘りのある、鉄の匂いを含んだ液体だった。睫毛の先に溜まった雫が落ち、白い寝衣の胸元へ暗い染みをつくる。
榛名依子は、息を吸った。
喉の奥がひどく乾いている。肺へ入った空気は、冬の事務所で一晩中稼働していた空調よりも冷たかった。けれど鼻を刺すのは埃でも機械油でもない。甘い花香と、蝋燭の煤、それから微かな血の匂い。
目の前に、ひび割れた鏡があった。
銀色の縁を持つ大きな姿見。その中央を走る亀裂が、映り込んだ少女の顔を二つに割っている。
青みを帯びた長い黒髪。血の気の薄い頬。淡い琥珀色の瞳。見覚えのない顔なのに、鏡の中の少女が自分であることだけは、疑いようがなかった。
右の頬が熱を持っている。
誰かに打たれた痕ではない。手のひらの形に赤く腫れているのは、鏡の中の自分ではなく――。
「お、お嬢様……」
震える声がした。
依子は、ゆっくりと視線を動かした。
床へ落ちた銀盆。砕けた磁器の茶器。薄茶色の液体が絨毯へ広がり、その端で、若い侍女が身を強ばらせている。
栗色の髪を白い布帽子の下へ押し込み、濃紺の侍女服を着た少女だった。年は二十歳に届くかどうか。左の頬が赤く腫れ、唇の端に細い血の筋がある。胸元で握り締められた両手は、関節が白くなるほど力が入っていた。
依子は自分の右手を見た。
細く、白い指。その爪の際に、他人の血が付いている。
触れた覚えはなかった。
だが、知っていた。
この手が、たった今、目の前の侍女を打ったことを。
知らない記憶が、熱を持って頭の奥へ流れ込む。
紅茶の温度が低いと怒鳴った声。銀盆を払った音。侍女が謝罪する前に立ち上がり、頬を打った感触。指輪が皮膚を裂いた、柔らかく鈍い手応え。
同時に、別の光景が重なる。
深夜の横断歩道。雨に濡れたアスファルト。残業を終え、鞄の中で鳴り続けていた会社の携帯電話。信号が青へ変わったと思った瞬間、視界を焼いた白い光。耳を塞ぐほどの警笛。
二十九歳の会社員、榛名依子。
その名が、遠い場所から呼ばれたように胸の底で響いた。
そして、この身体の名もまた、記憶の中にあった。
リディエラ・オルヴェイン。
魔術王国レオルディスの公爵令嬢。王太子の婚約者。乙女ゲーム『花冠のレガリア――聖女は五つの愛を選ぶ』に登場する、断罪されるためだけに用意された悪役令嬢。
依子の指先から、力が抜けた。
爪の間に残っていた血が、震えとともに滲む。
叫び声は出なかった。
こういう時、人は本当に声を失うのだと、妙に冷静な部分が考えていた。恐怖が大きすぎると、感情より先に、逃げ道と危険の数を数え始める。
部屋の扉は一つ。
閉じているが、外に人の気配がある。衣擦れ。押し殺した呼吸。侍女がもう一人、あるいは護衛が控えている。
窓は二つ。厚いカーテンの隙間から薄い朝の光が差していた。床までは高くない。しかし外が何階なのか分からない。
暖炉には火が残っている。火掻き棒。割れた茶器。銀盆。鏡台の上には細い髪飾りと香水瓶。凶器になり得るものが多すぎる。
目の前の侍女は、依子から目を逸らさない。
怯えているのに、逃げてはいなかった。
逃げれば追われると知っている者の立ち方だった。
その姿を見た瞬間、胸の奥で別の記憶が軋んだ。
母親の足音を聞き分けていた幼い頃。廊下を歩く速さ、食器を置く音、扉の閉め方で、その日の機嫌を測った。逃げれば怒られる。黙っていても怒られる。謝れば、何に対して謝っているのかと責められる。
だから、目を逸らさない。
相手の指先と呼吸を見て、次の動きを予測する。
目の前の侍女も、同じことをしていた。
依子は、自分の手をゆっくり下ろした。急な動きで怯えさせないよう、寝台の端へ置く。
「……水を、いただけますか」
声が掠れた。
自分のものではない、少し低く澄んだ少女の声だった。
侍女の肩が跳ねる。
依子は言葉を続ける前に、唇を湿らせた。命令の形にならないようにしたかった。だがこの世界で、公爵令嬢が侍女へ何かを求めれば、それはどれほど柔らかな言い方でも命令になる。
「飲むための水と、清潔な布を。用意できる範囲で構いません」
侍女は答えなかった。
ただ、目の奥の恐怖が深くなる。
突然静かになった主人を、気遣いのできる人間だとは思わない。次の罰の前触れだと考えるのが自然だった。
依子は、彼女の頬へ視線を戻した。
細い裂傷から、また血が滲んでいる。指輪の石が引っ掛かったのだろう。赤く腫れた肌の上で、その血だけが鮮やかだった。
「その前に、怪我を――」
「触らないでください」
声は小さかった。
けれど、部屋の空気を切るほど明確だった。
扉の外で、誰かが息を呑む。
侍女自身も、自分が口にした言葉を恐れたらしい。唇が震え、膝が僅かに折れかける。それでも彼女は、頬を庇うように顔を背けた。
「申し訳、ございません。けれど……今さら、優しいふりをなさらないでください」
優しいふり。
その言葉は、正しかった。
依子の中身が別人になったところで、打たれた頬の痛みは消えない。侍女にとっては、目の前にいるのは自分を殴った主人でしかない。
「分かりました」
依子は、膝の上で両手を重ねた。
指先が震えているのを隠すためではない。自分が手を伸ばさないと、目に見える形で示すためだった。
「触れません」
侍女が訝しげに顔を上げる。
依子は視線を合わせたまま、できるだけ静かな声で続けた。
「医務室へ行くかどうかも、あなたが決めてください。別の人に付き添ってもらっても構いません。私へ報告する必要もありません」
「……何を、お考えですか」
「今は、何も企んでいません」
答えながら、依子は自分の言葉の頼りなさを噛み締めた。
何も企んでいない者ほど、そう言う。
信じてもらえるはずがない。
「信じなくて構いません」
侍女の瞳が、僅かに揺れた。
「ただ、これ以上あなたへ近づきません。水と布も、他の方に頼んでください。あなたがここに残る必要はありません」
沈黙が落ちた。
暖炉の薪が崩れ、乾いた音を立てる。壁際の燭台から蝋が一筋垂れ、金属の受け皿へ落ちた。
侍女の呼吸は浅いままだった。けれど、すぐには動かない。罠がないか確かめるように、依子の顔から手元、扉まで視線を往復させる。
その時、視界の中央に淡い光が浮かんだ。
最初は、朝日に塵が反射したのだと思った。
だが光は空中で輪郭を持ち、薄い板のように広がった。透明な面に、黒い文字が一行ずつ刻まれていく。
〈悪役令嬢リディエラ・オルヴェイン〉
依子の呼吸が止まる。
侍女は反応しない。
彼女には見えていない。
〈推定生存率:1%〉
〈断罪イベントまで:七日〉
文字は静かに浮かび、逃げ場のない事実だけを示した。
七日。
依子はその数字を見つめた。
ゲームの記憶が、身体に残る記憶とは別の場所から滲み出す。
王立アルセリア学院の卒業祭。大階段の上で罪状を読み上げる王太子。聖女候補である妹ミレシアを毒殺しようとした罪、神殿への冒涜、騎士への虚偽告発、国家機密の漏洩。
華やかな舞台の中央で、リディエラは婚約を破棄される。
その後は選択によって違った。
国外追放。幽閉。処刑。
どの結末でも、この少女が幸福になる道はなかった。
しかも依子が知っているのは、発売された通常版だけではない。
会社の休憩時間、匿名掲示板で話題になっていた開発途中の流出版。理不尽な条件、異常な数値変動、攻略対象の愛情が一定値を超えると監禁へ変わる破棄データ。
〈ナイトメア・マスターズビルド〉。
制作者が完成を諦めた、最高難易度版。
そこへ転生したのだとしたら、生存率一パーセントという表示は脅しではない。
むしろ、一パーセントも残っていることを喜ぶべきなのかもしれなかった。
依子は奥歯を噛み締めた。
こめかみの内側で、鈍い痛みが脈打つ。見知らぬ記憶が流れ込んだせいか、打ち付けたせいか分からない。
鏡の亀裂が視界の端で歪む。
そこに映るリディエラの顔は、青ざめていた。
「お嬢様」
侍女の声で、依子は瞬きをした。
「……本当に、お医者様をお呼びしなくてよろしいのですか」
心配ではない。
主人がここで倒れれば、自分の責任にされる。その恐怖が声に滲んでいた。
依子は頷きかけ、止めた。
勝手に大丈夫だと決めてよい状態ではない。自分の身体のことも、侍女の立場も分からない。
「医師は呼んでください。ただし、あなたは別の方に処置をしてもらってからで構いません」
「私のことなど」
「あなたの怪我は、私が負わせました」
言葉にすると、胸の内側が重く沈んだ。
自分がしたことではないと言い逃れたくなる気持ちはあった。
依子には、侍女を打った意思も記憶もない。目を開けた時には、すべてが終わっていた。
だが、この身体はリディエラのものだ。
この地位も、部屋も、侍女が怯える理由も、すべてリディエラの名に結びついている。
中身が違うからといって、加害だけを置き去りにはできなかった。
「責任を、曖昧にはしません」
侍女の唇が固く結ばれる。
「そのようなお言葉を、何度聞いたと思っているのですか」
依子は返事をしなかった。
何度聞かされたのかを知らない者に、軽々しく答える資格はない。
沈黙が長くなる。
けれど今度の沈黙は、先ほどとは違っていた。
侍女は依子が怒鳴り出すのを待っている。謝罪を強要し、言葉を撤回させる瞬間を待っている。
依子は、ただ彼女の選択を待った。
やがて侍女は、胸元で握り締めていた手をゆっくり解いた。指の跡が掌へ赤く残っている。
「……外にいる者へ、医師を呼ばせます」
「お願いします」
「水と布も、別の者に運ばせます」
「はい」
侍女は一礼した。
動作は正確だったが、腰を折る時も依子から目を離さない。敵へ背を向けないようにする者の礼だった。
扉へ向かう足音が、厚い絨毯へ吸い込まれる。
彼女が取っ手へ手をかけた時、依子は思わず声をかけそうになった。
名前を知らなかった。
呼び止める理由もない。
謝りたかった。
けれど、今この場で口にする謝罪が、侍女に何を強いるのか分からない。泣いて許せと言えば、被害を受けた側が主人を慰めることになる。そんな形にしてはいけない。
依子は唇を閉じた。
扉が開く。
廊下には、二人の侍女と、黒い制服の護衛が立っていた。全員の視線が一斉に室内へ入り、床の銀盆、割れた茶器、頬を腫らした侍女、寝台に座るリディエラを順に捉える。
非難。
警戒。
諦め。
誰も声には出さなかったが、それぞれの表情に同じ結論があった。
まただ。
依子は、その視線を受け止めた。
侍女が廊下へ出る。扉が閉じる直前、栗色の髪が僅かに揺れた。
「フェルニカ」
外にいた侍女の一人が、彼女の名を呼んだ。
フェルニカ。
依子は心の中で、その名を繰り返した。
忘れてはいけないと思った。
扉が静かに閉じた。
一人になった部屋は、急に広くなった。
花の香りが濃い。甘すぎる香水の匂いが、喉の奥へまとわりつく。依子は浅く息を吸い、視界に浮かぶ文字へ意識を戻した。
〈断罪イベントまで:七日〉
文字の下に、小さな記号があった。
触れるつもりで指を伸ばすと、空中の板は音もなく展開した。
新たな項目が並ぶ。
〈本日の死亡要因〉
〈侍女による毒殺:12%〉
依子の指が止まる。
さきほどの紅茶。
絨毯へ広がった薄茶色の染み。倒れた銀のポット。フェルニカが運んできたものなのか、別の誰かが用意したものなのか。
あの液体に毒が入っていた可能性がある。
フェルニカが入れたとは限らない。
だが、表示は「侍女による毒殺」とだけ告げている。犯人の名はない。
〈王太子による婚約破棄:41%〉
〈密偵による暗殺:73%〉
最後の数字だけが、赤く脈打っていた。
七十三パーセント。
断罪まで七日あるからといって、それまで生きていられる保証はない。
依子は震える指を握り込んだ。
怖い。
ようやく、その感情が形を持った。
胸の内側が狭くなり、息が入らない。耳の奥で血の音がする。背中へ冷たい汗が滲み、寝衣が肌に張り付いた。
死んだはずなのに、また死ぬかもしれない。
しかも今度は、誰に、どのように殺されるかが数字だけで示されている。
逃げたい。
窓からでも、扉からでも、この部屋から、この学院から、この国から。
けれど、逃げる先を知らない。
自分の名前すら、今は二つある。
依子は俯き、膝の上の手を見た。
白く細い手。
血の残った指。
この手は、誰かを傷つけた。
そして七日後には、誰かに裁かれる。
以前の自分なら、きっと最初に謝った。
自分が悪いかどうかを確かめる前に、相手の怒りを鎮めるために頭を下げた。理不尽な仕事も、母の不機嫌も、父の沈黙も、自分が我慢すれば済むと飲み込んだ。
けれど、ここでは我慢するだけでは死ぬ。
逆らうだけでも死ぬ。
愛されても、嫌われても、死ぬ。
依子はゆっくり顔を上げた。
鏡の中で、リディエラの琥珀色の瞳がこちらを見返している。
泣いてはいなかった。
泣く余裕がなかった。
「状況を、確認しよう」
声に出すと、僅かに呼吸が戻った。
まず、今がいつなのか。
断罪まで七日。
リディエラが何をしたのか。
誰に恨まれているのか。
誰が自分を殺そうとしているのか。
部屋の外に何人いるのか。館か学院か。逃げ道はあるのか。金はあるのか。味方はいるのか。
そして、フェルニカへ何を返さなければならないのか。
依子は鏡台の上へ目を向けた。
革表紙の手帳。封蝋のされた手紙。細い鎖のついた鍵。花弁を模した銀の髪飾り。どれも、この身体の持ち主が昨日まで触れていた品なのに、依子には使い方も意味も分からない。
手帳へ近づけば、この七日間に起こることを調べられるかもしれない。
だが立ち上がろうとした途端、足の裏から力が抜けた。
寝台の柱へ手をつき、辛うじて身体を支える。視界が黒く狭まり、心臓が胸骨を内側から叩いた。恐怖を抑え込んでいた身体が、遅れて限界を訴えている。
息を吐こうとしても、喉が閉じる。
依子は目を閉じ、四つ数えて吸い、六つ数えて吐いた。
幼い頃、物置へ閉じ込められた夜に覚えた呼吸だった。泣き声を聞かれれば、母が扉の向こうから笑う。だから音を立てず、暗闇の中で自分の息だけを数えた。
一度。
二度。
三度。
鼓動はまだ速い。それでも、足元の床が戻ってくる。
耐えられることと、傷ついていないことは同じではない。
その言葉を、依子は自分へ向けたことがほとんどなかった。
「怖くて、当然でしょう」
鏡の少女へ言い聞かせる。
リディエラの唇が、同じ形に動く。
その時、扉が三度、控えめに叩かれた。
依子の肩が強ばる。
「お水を、お持ちいたしました」
先ほど廊下にいた侍女の声だった。
入室を許す前に、扉が僅かに開く。銀の水差しと硝子の杯を載せた盆が、細い隙間から見えた。その後ろには、医師らしい灰色の外套の男が立っている。
依子は返事をしようとして、視界の端で赤い文字が明滅するのを見た。
〈侍女による毒殺:12%〉
たった十二。
けれど零ではない。
杯の水は澄んでいた。朝の光を受け、底まで清らかに透けている。匂いも色もなく、毒など入る余地がないように見えた。
盆を持つ侍女の指が震えている。
その爪の際には、厨房で付いたらしい白い粉が僅かに残っていた。小麦粉か、砂糖か、それとも別の何かなのか。問いただせば怯えさせる。黙って飲めば、自分の命を賭けることになる。
依子は、猜疑心が人の顔を歪めて見せる感覚を知っていた。だからこそ、恐怖だけでこの侍女を犯人と決めつけてはならない。
依子が怒鳴ると思っているのか。それとも、別の理由があるのか。
扉の向こうで、医師が小さく咳払いをした。
「お嬢様?」
依子は返事をせず、透明な水と、赤く脈打つ数字を見比べた。
逃げることも、信じることも、今はまだ選べない。まず確かめなければならない。誰の恐怖が本物で、誰の善意に刃が隠れているのかを。
断罪まで七日。
だが世界は、七日も待つつもりがないらしいと依子は静かにこの悩ましい現実を受け入れつつあった。
ロディマスを探すことに、リディエラは少し迷った。先王妃アリエネの葬儀や老犬ルーディの夜について聞いたばかりで、さらに王太子の内側を弟から引き出せば、結局は黒ミッションのために弱点を集めることになる。今朝決めたのは、泣く理由を作るのではなく、泣いても困らないと思える状況を探すことだった。そのために弟の秘密を利用するのなら、選択肢を閉じた意味がない。リディエラは黒い帳簿へ、「兄の傷ではなく、弟自身が兄との関係をどう感じているかだけを聞く」と一行書き、学院北側の小さな射場へ向かった。 午後の射場には乾いた草の匂いと弦が空気を切る短い音が漂っていた。ロディマスは王族用の練習区画で一人、標的へ矢を射ていたが、放たれた一本は中心からわずかに右へ外れた。白金の髪の少年は「外した」と低く呟き、次の矢を取ろうとして入口のリディエラに気づくと、明るい青の瞳を露骨に細めた。前に資料室で話した時より警戒が強く、弓を下ろしながらも自分から近づこうとはしない。「今度は何を聞きに来た」「少しだけ、お話しできればと思って」「兄上のことなら嫌だ。母上のことも、ルーディのことも話しただろ。あれ以上、兄上の弱みを教えるつもりはない」 返事は取りつく島もなかったが、それは当然の拒絶だった。ロディマスの立場から見れば、婚約者でありながら兄の過去を調べ回っているリディエラが、何かに使うため弱点を探しているように見えてもおかしくない。黒ミッションを抱えている以上、「絶対に利用しない」と将来まで保証することにもためらいがあったが、少なくとも今日ここへ来た目的だけは違う。リディエラは標的と少年の間を避け、射線から十分離れた場所に立った。「殿下を傷つける材料にするつもりはありません」 ロディマスの眉が動いた。「……兄上を?」「はい。今日は、あなたがお兄様といる時にどう感じているのかを聞きたいのです」「僕の気持ちを知って、どうする」「今は何もしません。ただ、殿下が誰かを守ろうとする時、守られる側にはどう見えるのかを知りたいと思いました。話したくなければ、ここで終わります」 風が射場を抜け、積まれた藁束を乾いた音で擦った。ロディマスはすぐには答えず、矢筒へ戻した矢羽を指先で整えながら、何度かリディエラの顔を確かめる。やがて彼は近くの長椅子へ腰を下ろし、弓を隣に置いた。話すと決めたというより、ど
目を覚ました時、窓の外はまだ朝になりきっていなかった。薄い雲の向こうから青白い光が差し、寝台の天蓋と床の境目を曖昧にしている。昨夜の雨は止んでいたが、窓硝子には水滴が残り、暖炉の灰からは湿った薪の匂いが漂っていた。リディエラは上掛けの中で一度深く息を吸い、視界の隅に残っている黒い表示へ目を向けた。〈黒ミッション残り時間:48時間00分00秒〉 数字が切り替わり、〈47時間59分59秒〉へ変わった。その下に見慣れない白い枠が開き、黒い画面の中央へ細い銀線が走る。これまでにはなかった項目が、命令ではなく助言を装うように静かに浮かんだ。〈推奨攻略〉〈先王妃アリエネ関連イベントを使用してください〉 リディエラの指先から、眠気が消えた。昨夜、ティルヴァンと向かい合って食事をしたばかりだった。香りの強い根菜を最後に食べる理由を聞き、雨の日を好む理由を聞いた。先王妃についてどこまで知ったのかと問われた時にも、彼が今その話を聞きたいかを確かめ、本人が「今日はいい」と答えたところで止めた。それを遠回りだとでも言いたげに、黒い画面がさらに広がった。〈推奨選択肢〉〈A:母親の死を責める〉〈B:無実の侍従を処刑した罪を指摘する〉〈C:母親の遺品を破壊する〉〈D:自身が理解者であると告げる〉 最初の3つを読んだ時には、嫌悪より先に身体が強ばった。だがDへ視線が移ったところで、リディエラはかえって長く画面を見つめた。一見すると、4つの中で最も穏やかだった。責めない。壊さない。罪を突きつけない。ただ、自分だけはあなたを理解していると伝えるだけだ。 孤独だったのですね。泣けなかったのですね。母上を失って苦しかったのでしょう。他の者には分からなくても、私は分かります――そんな言葉を柔らかな声で並べればいい。暴力も毒も使わず、相手を抱き締めるような形で心の奥へ入っていける。 セフィランの顔が浮かんだ。怒ってしまったのですね。妹を羨ましいと思ったのでしょう。愛されたいだけなのではありませんか。本人より先に感情へ名前をつけ、救いたいという善意で出口を狭めていく。Dは、それと何が違うのだろう。 自分だけが理解していると宣言するには、まずティルヴァンが何を感じているかをこちらで決めなければならない。母を失って悲しい。告発した侍従のことで罪悪感がある。誰にも弱さを見せられず孤独だ
王宮の小食堂には、雨の匂いが薄く入り込んでいた。 夕方から降り始めた雨が、高い硝子窓を細かな指先で叩いている。外はすでに暗く、庭園に並ぶ魔術灯だけが濡れた石畳へ青白い光を落としていた。 長い食卓の中央には、白い花と銀の燭台。 料理は2人分。 王も王妃もいない。 今夜は、王太子とその婚約者が今後の学院行事について確認するための、形式的な夕食会だった。 少なくとも表向きは。 リディエラはティルヴァンの向かいに座っていた。 濃紺の正装。 白金の髪。 背筋はいつも通り真っ直ぐで、ナイフを持つ角度まで乱れがない。 ティルヴァンは食事中もほとんど音を立てなかった。 給仕が皿を下げる時には僅かに身体を引き、次の皿が置かれる位置を見ずとも把握している。 それを見ながら、リディエラは不意に気づいた。 自分は、この人が食事をするところを何度見ただろう。 婚約したのは幼い頃だ。 王宮の晩餐。 公爵家での食事。 学院の茶会。 隣へ座った記憶はいくつもある。 それなのに。 彼が何を先に食べるか。 何を残すか。 熱い物と冷たい物のどちらを好むのか。 食事中に話す方なのか、静かな方なのか。 そういうことを、過去のリディエラはほとんど覚えていなかった。 覚えているのは別のことばかりだ。 王太子妃らしい姿勢。 失敗しない食器の扱い。 隣国の令嬢より豪華なドレス。 母エネファが認める髪型。 ティルヴァンが婚約を解消しないために、どう振る舞うべきか。 ずっと隣にいたはずなのに、彼を見ていなかった。 見ていたのは、彼の隣に立つ自分だった。「食欲がない?」 ティルヴァンの声で、リディエラは顔を上げた。「いえ」 皿を見る。 白身魚と香草。 半分ほどしか食べていない。「少し考え事をしていました」「毒のこと?」「今日は違います」「では、魔術灯?」「それも違います」 ティルヴァンの視線が一度、リディエラの顔を確かめるように動く。「珍しいね」「何がでしょう」「君が考えていることを、こちらから当てなくても答えるのが」 責める調子ではなかった。 ただ、過去との違いを記録するような言葉。「隠す必要のないことでしたので」「隠す必要があることは、まだ多い?」 黒ミッション。 システム。 好感度。 先王妃の記録。
旧王妃庭園へ続く渡り廊下の手前で、リディエラは足を止めた。 視界の隅では、黒い表示が時刻を刻み続けている。〈推奨接触時刻まで:08分42秒〉〈対象:ティルヴァン・エルグレード〉〈対象は旧王妃庭園へ移動中です〉 あと8分。 このまま進めば、会える。 システムがわざわざ時間と場所を指定したということは、そこにティルヴァンを泣かせるための何かがあるのだろう。 亡き母の庭園。 十一歳で失った王妃アリエネ。 母の死後も涙を見せなかった少年。 老犬の亡骸の前で、「僕が悲しめば、皆が困る」 と口にしたという記憶。 そこまで材料が揃えば、何をすればよいかは想像できる。 母親の話をする。 葬儀の日を尋ねる。 泣かなかった理由を問う。 昔の傷を丁寧に撫で、閉じ込めてきたものが溢れるまで待つ。 優しく行えば、暴力には見えない。 けれど目的は同じだ。 涙を得るために、相手の最も痛い場所へ触れる。 ネレスの言葉が蘇る。 ――一番触れられたくない傷を探して、そこを抉ればいい。 リディエラは旧王妃庭園へ続く扉を見た。 白い石造りの廊下。 先には王宮警備兵が2人立っている。 通ろうと思えば通れる。 王太子の正式な婚約者であるリディエラには、その資格がある。「お嬢様?」 後ろからマルタの声がした。「参られないのですか」「……今日はやめます」 システム表示が明滅する。〈推奨接触時刻まで:07分56秒〉 命令ではない。 推奨。 ならば従わなくても、今すぐ失敗にはならない。「別の場所へ行きます」「どちらへ?」「王宮記録局です」 マルタの目が僅かに見開かれた。「先王妃陛下について、もう少し確認します」「殿下へ直接お尋ねにならないのですか」「本人へ尋ねる前に、私が何も知らなさすぎます」 自分が知りたいからと、本人にすべて説明させる必要はない。 公開されている記録から確認できるところまでは、自分で調べる。 そのうえで、なお本人へ尋ねる必要があるのか考える。 リディエラは踵を返した。 背後で推奨時刻だけが減り続けている。 王宮記録局は、王城西翼の古い棟にあった。 白亜の華やかな中央宮殿とは違い、灰色の石壁に細い窓が並ぶ実務的な建物だ。扉の上に王冠と羽根筆を組み合わせた紋章が掲げられている。 入口で身分を確認
資料棟を出た時、時計塔は15時12分を指していた。 旧王妃庭園へ向かうよう示された時刻は16時10分。 視界の隅には、別の時間が減り続けている。〈黒ミッション残り時間:66時間49分37秒〉 リディエラは回廊の途中で足を止めた。 ティルヴァンの母アリエネが亡くなったこと。葬儀でも泣かなかったこと。母の老犬が死んだ夜、「僕が悲しめば、皆が困る」と口にしたこと。 知ってしまった。 だが、その知識を使うつもりはない。 旧王妃庭園で亡き母の話を故意に持ち出し、老犬の記憶へ触れる。泣いてもよいと優しく言いながら、涙が出るまで傷を撫で続ける。 そんなことをすれば、黒い表示は喜ぶかもしれない。 リディエラは嫌だった。 ただ、嫌だという感情だけで残り時間は止まらない。 もう一つ確かめたいことがある。 どこまでが無効で、どこからが「本人の感情」と判定されるのか。 身体を傷つけることは無効。薬も、魔術による強制も、演技も無効。 では、偽りの知らせによって本気で悲しませた涙はどうなる。 他人から誘導された感情でも、本人が本当に悲しめば有効なのか。 そんな境界を尋ねる相手として、一人だけ思い浮かんだ。 最も相談したくない男でもあった。 ネレス・カルヴァディン。 好感度11。未だ排除域。 毒を盛り、殺す理由を教えず、価値がある間だけ生かすと言った青年。 同時に、人間がどこで傷つくかをよく知っている。「マルタ」 少し後ろを歩いていた侍女が顔を上げる。「はい」「東棟へ寄ります」 マルタの表情が露骨に曇った。「ネレス様ですか」「おそらく」「またお茶を?」「飲みません」 即答すると、彼女は少しだけ安心したようだった。「人の多い場所で話します。前と同じように、少し離れていてください。ただし、私が杯に触れたら来てください」「今回は杯に触れないとおっしゃったばかりでは」「念のためです」「分かりました」 以前より、彼女は質問するようになった。 それが嫌ではなかった。 東棟の談話回廊は、午後の講義を終えた生徒たちで賑わっていた。 香辛料を練り込んだ焼き菓子の匂い。異国語の会話。窓のない回廊を風が通り、吊るされた布飾りを鳴らしている。 ネレスは、以前と同じ奥の席にいた。 今日は3人の男子生徒を相手に、札を使った遊戯をしている
旧王妃庭園へ向かうまで、まだ数時間あった。 黒いミッションは、視界の隅で時間を削り続けている。〈残り時間:69時間14分08秒〉 リディエラは表示を閉じた。 焦れば、傷つく言葉を探し、過去を暴き、泣くまで追い詰める方へ傾く。それをしないと決めたのなら、まず知るべきは「どうすれば泣くか」ではなく、「なぜ泣かないのか」だった。 王立アルセリア学院の中央資料棟には、王家に関する公刊記録も保存されている。 王太子の生い立ちそのものは秘密ではない。 むしろ、王位を継ぐ者の歩みとして積極的に残されていた。 リディエラは司書へ申請し、宮廷年報、王都新聞の縮刷版、学院行事記録を閲覧机へ運んでもらった。 高い窓から射し込む朝の光。 遠くで頁をめくる乾いた音。 黒い革表紙の宮廷年報を開く。 最初に出てきたのは、六歳のティルヴァンだった。 公式晩餐へ初めて出席した日の記録。〈王太子殿下は幼少ながら終始ご立派な態度を保たれ、諸侯の挨拶へ一人ずつお応えになった〉 添えられた記録画には、小さな白金の髪の少年がいる。 大人用の椅子へ座れば足が床へ届かないほど幼い。 それでも背筋を真っ直ぐ伸ばし、膝の上へ両手を置き、正面を見ている。 笑っていない。 怯えてもいない。 子どもらしい退屈さすら見えない。 次は八歳。 外国使節団を迎えた時の記録だった。〈殿下は使節の母国語による挨拶を披露され、両国友好の象徴として大きな称賛を受けられた〉 写真のティルヴァンは、やはり同じ顔をしている。 唇の角度まで整っているように見えた。 十歳。 王太子として初めて民衆の前で短い演説を行った。〈未来の王としての責任をすでに深く理解しておられる〉 どの記録も褒めている。 泣かなかった。 取り乱さなかった。 怯えなかった。 失敗しなかった。 そのすべてが、美徳として同じ方向へ積まれていた。 リディエラは紙の余白へ簡単に書き留める。 六歳――公式晩餐。 八歳――外国使節。 十歳――初演説。 すべて「落ち着いていた」「立派だった」「年齢以上」と評価。 子どもらしい感情が記録されていない。 羽根筆を止める。 記録にないことと、存在しなかったことは違う。それでも、周囲が何を価値あるものとして残したかは分かる。 感情を抑えられる王子。 乱れない







